昭和32年、田島先生の肝いりで鉄筋四階建ての校舎(現在の二号館)の竣工と同時にその三階にクラブ局が開設された。送信機の匡体だけでも高さが約170センチ、奥行き、幅はそれぞれ80センチもあり、ファイナルは 2B29 の双ビーム管のプッシュプルで80Wを出していた。この真空管は米国製で一般にはめったにてに入らない代物であったが航空局の定期点検ではねられたものが運良く入手でき、電波形式はA1、A2、A3で7メガ、3.5メガ、14メガの電波が発射できるものをオール手造りで仕上げ、無事電波管理局の検査にも合格し、ここに輝かしい歴史の1ページを飾ることになった。この送信機の製作に当てられたのが主に玉置守先生(JA2FM)や佐久間行也先生(JA2WJ)であった。
開局当時の部員数はさすが「無線の名古屋」だけあり26名の名前が記録されている、当時のアマチュア無線界での日本は世界から見れば超「珍」カントリーで世界中からコールされたそうである。
1966年(昭和41年)オペレーターにも恵まれ夢の米国CQ社主催のワールドワイド(WW)DXコンテストにおいて未来永却二度と手にすることがないであろうといわれている日本で第1位のアワード(賞状)を獲得、現在も部室に燦然と輝いている。また、「電波の日」(6月1日)には丸栄百貨店やオリエンタル中村百貨店(現在名古屋三越)の屋上および自動車に設置したモービル局を運用、毎年公開運用を実演した、当時としては大変ユニークであったため新聞社、ラジオ局、テレビ局からの取材があり毎年報道されたものだ。
部室も昭和44年本館の竣工と同時に本館10階に移動したが学校の特殊性からいろいろな機器が設置されており100Wも出せばバンドによっては体育館の放送設備や103ギガヘルツの降雨計などに電波障害が出るなど、その対策には苦難の連続であったが平成3年、現在の三号館に移動してからは障害もなくフルパワーでQSOコンテストに参加できるようになった。
毎年必ず参加するコンテストとしては学校行事などの関係で10月に行われる「全市全郡コンテスト」であるが上位入賞を果たすにはフルエントリーが必須であり部員の健康面なども考慮してアットホーム的な雰囲気で挑戦させようという顧問の配慮から4・5年前からは木村先生の自宅からエントリーするようになり成績は今一歩であるが楽しみながら参加している。
昭和32年創部当時の部室
【対外活動】
・ワールド、ワイドDXコンテストへの挑戦(アマチュア無線クラブ)
ワールド、ワイド(WW)DXコンテスト(米国CQ社主催)は数あるアマチュア無線のコンテストの中では最高峰にランクされ、言うならばアマチュア無線コンテストのオリンピックに相当するものである。
このコンテストは、電信と電話部門が別々の日に、毎年1回全世界を対象に24時間連続で行われ、国外のアマチュア無線局と1局でも多く交信し、その得点を競う競技であり、世界中がリアルタイムで競う競技としては他に類を見ないであろう。
1966年のこのコンテストで、我が「名古屋高等無線電信学校アマチュア無線部」が参加、見事、「日本一」の栄冠に輝いた。
使用した送信機はヤエスのFL−100B、受信機はFR−100Bでごく普通の設備であったが、アンテナはコンテストのために二号館(鉄筋4階建)の屋上にキュビカルワットを設置し、調整は念入りに行い最高の状態にしたおいた。
特筆すべきはオペレーターとして大活躍したJA5BJC(山崎達郎君、電波通信科)とJA5BEI(高橋成吉君、電子工学科)であろう。
山崎君の通信術は神業で、このような逸話も残っている。当時は毎年5月に球技大会が実施され、同時に通信競技会も行われていた。
この競技会において送信速度が早すぎて印字機ではモールス符号が判別できず、当時の田島校長からは「これはノースペースで符号になっていない」とクレームがつき入賞から外され掛かった。そこで通信術担当の先生から「そんなはずはない、印字機のテープ送り速度を上げて審査のやり直しをしてほしい」との異議が出され、再度テストをすることになった。結果は見事なモールス符号になっておりダントツの優勝となった。
高橋君の通信術の腕もすごいもので、私も少し交代して受信したが他の者には全く聞こえてない呼び出し符号が高橋君にはハッキリと聞こえるらしく「先生それでは駄目ですよ」とすぐ交代させられてしまった。私も5年以上、船舶通信士として業務を行っており腕には少々自信はあったが、とても歯がたたなかった。
山崎君はやせてはいたが2メートルもある大男であり、高橋君はどちらかと言えば小柄で二人がそろって歩くだけでも話題となるような名コンビでもあった。
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